朝起きたら、「小泉首相が靖国神社を参拝すると」報道。
「社長のブログ」である以上、商売がマイナスになるような事は書けない。かといって、軽く見られても困る。
98年夏「戦争論」小林よしのり著 幻冬舎が出た時、マスコミは大騒ぎ。確かに、読めば納得してしまう人が多かったが、「そうはいくかい!」とばかりに反対批評も続出。01年秋に「戦争論2」を出すあたり、やはり肝が座っている。
それから、中国が経済成長を加速させる中、靖国神社参拝についての意見を加速させてきた。書籍も論評も出るわ。出るわ。
『靖国問題』高橋哲哉著 ちくま書房 これを読んでも、まだ自分が定まらない。「戦争責任認識」「不戦の誓い」「国家責任」「戦没者を顕彰する儀礼装置」「国立追悼施設」「神道施設を無宗教に」これらをキーワードに考えても、ただいえるのは、「人が死んだら、家族親戚の営みになるが、同時に多くの方が死んだら、合同で集団追悼を行うの当たり前になっている。それに参列するか否かは、自由。」
戦争をして負けて、手に入れたのは「首相が参拝するなんて、、」と批判できる自由であり、参拝する自由、ではないだろうか。(中国にそんな自由はあるのか。国家論を語る自由を今持ち合わせてるのか。)だから、議論すればいい。「想い」だけの「答えのない」問題に「自由に」参加して、人を磨けばよい。
A級戦犯東條は自殺しそこない、ついには処刑された。もし彼が「天皇」を守るために、悪を背負い込んでいくつもりであったとしたら、手を合わすしかない。彼の真意・本意はどこに、、分かりません。
戦争は、人間の本能が作る異常で過剰で特殊な状況なのだ。ドイツの様に一人が戦争に導いたのではない日本の戦争、誰に責任転嫁すべきなのか。本当は、天皇だったのか。それも悲しい。これらを悲しみ追悼すればよい。
日本人の多くは神社に行っても、神経を尖らすほどその宗教を深く思っていない。誰かが「無宗教追悼施設」を語れば語るほど、「宗教」を意識し、他方で「宗教」が強くなってしまうのではないか。
そんな事を考えていたら、『なぜ、日本人は賽銭を投げるのか』新谷尚紀著 文春新書 を読むまでに、、、
日本人の宗教は、気が小さい。
変な言い方だけど、、、そこが可愛い日本人と云う感じ。
「穢れた貨幣に、穢れを託して賽銭箱に、、」そんなことを思っていなかった。この賽銭で神社の経費に、、としか。社会学者が考えると、行動そのものが、難しくなりすぎてゆく。
でも、面白い本でした。
「縁起かつぎ」「カラス・犬と信仰」「辞世の歌」いろいろ勉強になりました。
今日15日、多くの人が、靖国神社に参拝している。
昨日、NHKで『どうして人は戦争するの?ワットと一緒に考えよう平和の意味』をやっていた。
「欲」だよね「欲が人を動かす、戦争へにも・平和へにも、憎しみへにも・愛へにも導く」


