2011年10月21日

三夕の歌 2

先端大街路樹.JPG

「三夕の歌」をより深くという、ご要望にお答えいたしまして
寂蓮は苦手なので、ちょいと横に置いて書きます。

三夕の歌は、「新古今和歌集」巻四・秋歌上に並びいれられた三首。


『さびしさはその色としもなかりけり 真木(まき)立つ山の秋の夕暮れ』
          寂蓮

  乱暴な現代文訳
     寂しさといとう情景や風情は、どうこがどうのこうのと言うことでもなく
     常緑樹が夕暮れに立つ情景でも寂しさを感じてしまう。色じゃない空気感だよ
     


『心なき身にもあはれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ』
          西行
     
  乱暴な現代文訳
     出家して惑う心なく過ごしたいと願うこんな私に、鴨が飛び去ってゆく水辺
     去ってしまった後の水辺の静寂は、秋を感じさせてくれた。そうだよ、今の
     私にでも、秋は感じられてしまう。



『見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ』
          定家

  乱暴な現代文訳
     見わたせば花も紅葉もない海辺の秋に、幽玄を感じました。


ここで、興味深いのは西行と定家。

西行の交際範囲は、意外と狭かったようである。
しかし、定家の父・藤原俊成とは親交があった。
西行は、定家や藤原家隆・寂蓮・藤原隆信・慈円など若手歌人に伊勢神宮奉納百首を詠むことを勧めた。今日、「二見浦百首」「伊勢百首」とか言われる完成度の高い作品集です。

この定家の『見わたせば・・・』はこのときの詠です。(1186年)

源氏物語・明石の巻中の「なかなか春秋の花紅葉のさかりなるよりは、ただそこはかとなう繁れる蔭どもなまめかしきに・・」という夏の明石の海岸の描写を、うらさびしい秋の夕暮れに変えたものといわれています。

中世では「詫び茶」の精神をあらわす歌としても享受されています。

では、西行は。
「山家集」の歌であり「秋 ものへまかまりける道にて」とあります。
何かの用事で道を歩いていた時のものです。

当時、「歌合(うたあわせ)」が流行していました。
他人と自分の作品を比較し、優劣を争うものです。しかし、西行は仏門の身だからなのか、その様式自体に嫌悪していたのか、参加していません。
「自歌合」というこれまで詠んできた自分の作品だけを左右に番えて、行いました。

この西行の「心なき・・」は、「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」において
加判(優劣を決める)を俊成によって評価される。

その「十八番」

『大かたの露にはなにのなるならん 袂(たもと)に置くは涙なりけり』

『心なき身にもあはれは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ』

左勝

そうです。なんと「三夕の名歌」が負けたのです。
その判定理由は
「後半の七七が幽玄ですがたもよいのに比し、前半が理に落ち、作者の我意の肌理(きめ)が荒く目立つ」のこと。
確かに「心なき見にもあはれは知られけり」という前半は、ある種今までの和歌とは違います。
今まで、というのは時代的なことです。
西行は、当時の歌人たちとは、感性が違っていたかのようです。
「心」の中を大事にする西行です。
定家達の新時代への移行ための、大きな礎が西行であったかもしれません。

後に次の「自歌合」である「宮河歌合」の加判を44歳年下の定家に託したのは、
西行の定家への期待であります。

そうそう、寂蓮は俊成の養子に入っています。

西行は1190年に、寂連は1202年 定家は1241年になくなりました。

参考図書:高橋英夫著「西行」・久保田淳著「藤原定家」・藤平春男著「新古今歌風の形成」ほか3冊


写真は、北陸先端科学技術大学院大学の街路樹です。
会社まであと500m位。
posted by 社長 at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 歳時記
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